これらの訓練とあわせて、航空力学、航空医学、気象学、そして秋水の構造、性能。KR-10ロケットエンジンなどについての講義も受けた。それらの講義の中で、薬液の取扱い、航空医学については特に力を入れていたようだし、我々にしても直接命に関わることなので真剣に学んだ。

 薬液の取扱いについては、甲液についての注意に終始した。KR-10に使用する甲液は、90%近い高濃度の過酸化水素水のため、これをピペットにとって一滴床に落とせば、パチパチと燃えあがる。これは、甲液が爆発するのではなく、床にある微細なゴミが一瞬にして酸化して燃えあがるためだ。だから秋水の発進前の写真で散水しているのは、万一甲液の液漏れで地上の微細な物質と反応して火災ないしは爆発を防ぐためである。だから大きな物質、例えば木材の上に液を落としても、じわじわと黒コゲになって燃えはじめる程度である。要するにほこりが恐ろしいわけだ。また、これが皮膚につくと火ぶくれになり、火傷を負うが、すぐに水で洗えば大丈夫とのことだった。そのような危険な燃料を積んでいるので「着陸時に燃料がのこっていたら全部捨てろ」「車輪が落ちなかった場合、決して車輪をつけたまま着陸するな」とうるさいほど言われた。車輪をつけたまま着陸すると、トレッドが狭いうえに、車輪落下装置のケッチがオープンになっているかもしれないので、転覆して大爆発の可能性があるというのだ。本家のドイツでも、こうした地上での事故が多発しているので、充分に注意しろとのことだった。

 航空医学では難しいことはさておき、我々には高々度での脱出法が重要であった。高度1万m付近で被弾或いは何らかのトラブルに遭遇した場合は、携帯用酸素ボンベをくわえて機外に脱出し、高度5000m以下になるまでパラシュートを開いてはいけないということだった。現代流行のスカイダイビングと同じ手法だが、大きく違う所は、体質によっては数秒であの世へ逝ける低い気圧と、夏でも−30℃という低温の中を落下していくのだから相当の覚悟が必要だったに違いない。 二ヵ月余の低圧訓練をおえた、小野少佐(10月昇進)、犬塚豊彦大尉(海兵七十期)と16名の少尉から成るMe163実験要員は、横須賀海軍航空隊白里ヶ原派遣隊となって白里ヶ原基地へ移動した。隊名が長いので、ここで初めて「秋水隊」と呼ぶことになり、これが後に一般通称となった。

 さて、軍では11月には1号機の試飛行、20年3月には160機の秋水を生産する計画を立てていたので訓練は急を要した。とは言え僅かな資料しかない全く未知の機体と取り組むのであるから、隊長を中心に全員で夕食後にしばしば研究会をひらき、これからの訓練の方法、レーダーと共同しての誘導法、攻撃方法などについてディスカッションを繰り返した。

 秋水は燃料を使い果たせば、滑空で基地に帰投しなければならないのだから、我々が真っ先に習得しなければならないことは、エンジンの力を借りずに帰投することだった。ところが秋水隊には数機の九三中練しかなかったので、九三中練の滑空比を割り出し、基地から10kmほどのところにある涸沼上空でエンジンを全開にして帰投する訓練から始めた。11月中旬には零戦、光六・二型ソアラーも導入され、滑空訓練は光六・二型ソアラーを九三中練で曳航し涸沼上空で切り離す方法に切り替えられた。

 零戦による対大型機攻撃訓練はB-29と秋水の速度差の比率が、零戦と九三中練のそれに似ているということから、標的の吹き流しは九三中練に曳航させる。また、通常の後上方攻撃を行ったのでは、敵の編隊火網に曝され被弾のおそれがあるので、敵の前上方で背面になり真っ逆さまにB-29の直上30度の死角をついて攻撃することが研究会で決まり、さっそく翌日から実施された。

 前下方に吹流しを曳航した九三中練が見えてくる。頃合いはよしとクルリと背面にする。鹿島灘が頭の上にひろがり、逆さになった九三中練が近づいてくる。そのまま真逆さまに突っこんでいったが大した過速にもならず、ただ大きなGに悩まされるくらいのもの。回をかさねるにつれ正確に攻撃できるようになったが、この方法での射撃は命中させるのがむずかしかった。ソアラーの曳航、ソアラーの操縦、吹き流しの曳航、背面攻撃と16人で4役をこなさねばならないので、あっちへ乗ったりこっちへ乗ったりで飛行作業は多忙を極めた。こうした訓練の合間に技術部との打ち合わせや基地設営でも無理をされていた小野隊長が、ついに12月上旬、胸膜炎のため横須賀海軍病院に入院されてしまった。