巻頭言
 昭和二十年七月七日一六五五、追浜飛行場に誘導された「秋水」は時至り、ロケットを噴射し力強く離陸、急上昇し
「ロケット戦闘機秋水」の「初飛行の栄光」を目の当たりにしましたが、悲しい哉、寸時を措かず「落日の栄光」と化
しました。
 「秋水時に時に至り百川河(ひゃくせんが)に灌(そそ)ぐ」(荘子、秋水篇)大河の流れのように、早や五十六年
の歳月が過ぎてしまいました。
 思えば、百里基地で兄とも慕いし犬塚大尉と、酒を酌み交わしながら「武士道とは死ぬことと見つけたり」と「葉隠」
を論じたのも遠い昔のことでございますが、つい昨日のように思われてくるのでございます。
 バブル経済に浮かれ、それが崩壊するや、十年過ぎて未だに平成の不況を脱し得ません。
 武士道の何たるかも知らぬ、義を失った政・官・業の似非(えせ)紳士達、右往左往し、その出処進退を誤る輩が今な
お後を絶ちません。
 「君子は諸(これ)を己に求む、小人は諸を人に求む」(論語)。キリスト教を信じた新渡戸稲造は「義は武士道の掟
中最も厳格なる教訓である」と。また「勇気は義のために行われるものでなければ徳の中に数えられるには殆ど値しな
い」と、武士道を説いています(英米武士道・新渡戸稲造著 矢内原忠雄訳 岩波文庫)。言い直せば「武士道は義を重
んじ、勇は義のために行われるもの」であります。「利を見て義を思い」「義を見て為さざるは勇なきなり」(論語)。
この義を見失い、利益のみを追求し、その利を不正と知りながらこれを改めんとする勇気を持たない人々は国家
をリード
する資質なき人達です。こういう人が政・官・業のトップの座、或いはその付近にウロウロするのは困るものです。国を
没落させます。
 「刀」は「武士道」を象徴するものです。「大河の剣其の色秋水の如し」(越絶書)大河剣は中国春秋時代の名剣、
「三尺の秋水」は銘刀の異名です。

      「衣は骭(かん)に至り 袖腕(わん)に至る
       腰間の秋水鐵断つ可し
       人触れるば人を斬り 馬触れるば馬を斬る
       十八交(まじわり)を結ぶ健児の社(しゃ)」

 幕末の儒者頼山陽の有名な「全兵児謡(ぜんへこのうた)」の一節です。
 「秋水」にて回天の業を成さんと昼夜を分かたず努力せし
若き日の心、仮令身は老境に達していても、その若き心は失っていません。
 「銘刀秋水の汚れなく冴えわたった剣の心」と、「美しき女性の目の秋水のように澄み清らかな心」(中国故事成語辞
典)を持ち、強く生きていきたいものと願うものです。勿論「死而後巳(ししてのちやむ)」です。
 ここに「銘刀秋水の心」を心とし「ロケット戦闘機秋水」と共に殉じられた犬塚少佐並びに亡くなられた方々のご冥福
をお祈り申し上げ、献杯を捧げる次第でございます。合掌。

秋水会代表 松本俊三郎
(本巻頭言は2001年7月8日発行の冊子「秋水」第六号に掲載したものである)
 
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